先週、とある先人と深い対話をしました。性善説と性悪説についてです。
「柴田さんは性善説だよね。」
「はい、そうだと思います。」
「それは幸せなことだ。私は性悪説だ。」
私より一回り年長で物腰が柔らかいその方が性悪説と断言したことに少なからず驚きました。
「もちろん人間の行動や社会のあり方を見るに両面あると思う。ただ、性善説でいると、自分の期待が裏切られて辛い想いをすることになる。そんなことはなかった?」
「そういうこともありました。」
「人間には自己の利益や欲求を最優先し、他者を無視したり、害を与えたりする傾向がある。そう思っていた方が精神衛生上、自己防衛になるよ。社会の秩序を守るために多くの法が生まれている現実を見てもそうでしょ。」
なんとも切ない想いになりました。
「いいですか。全員性善説のチームであったとしても、そこに一人、性悪説の人が入ってくると、その人の言動に心を痛め、その人に対して良くない感情を抱く人が続出する。性悪説の人を抑制するために、次第にチームの多数が性悪説に変わってしまうものだ。」
性悪説の人に対して、傷だらけになりながらも性善説を貫いていくと最終的にその性悪説の人が性善説になるというドラマがあるけれど、それはドラマの話。現実は違うと思うよ。」
その方がおっしゃることに反論できませんでした。その通りだと思ったからです。ただ、それでも性悪説を前提に物事を決めたり、行動したりすることに私は抵抗があります。
“社員は監視していないとサボる”、“問題行為に対しては懲戒を厳しくすべし”、これらはいずれも性悪説に基づく発想です。リーダーがこのスタンスだと、楽しく働くということからほど遠くなります。
性悪説に基づく考え方では、人々が自発的に働く動機や楽しみを重視するよりも、監視や強制、報酬・罰のシステムを通じて、義務感や報酬、罰の回避をもって動機づけにします。ただ、私はそういう環境に身を置きたくないと思います。働くこと自体に楽しみを見出してほしいと思ってしまいます。
私が性善説と言ったことに対して、先人から「幸せなことだ。」と言われましたが、確かにその通りで、これまでの人生で遭遇した人たちの多数が性善説だったのでしょう。ありがたいことです。
中にはとんでもない人もいました。表向きは支持すると言いながら、裏で全く違うことを画策していた人、恩を仇で返す人・・・。そのときのことを思い出すと憤怒と切なさが交錯します。
性善説、性悪説、どちらが正しいということではありません。思想の問題です。世の中的には性悪説が多数のように思えます。それでも私は性善説でありたいと思っています。人はいつでも性悪説に豹変するということを承知した上で、それでも性善説で行動するのがよいと。
おまけー1:とある駅でエスカレータに、多くの人たちが秩序をもって進んでいたところ、外国人の集団が列を丸無視して横入りしてきました。が、その割込みがあっても秩序は乱れませんした。(いいぞ、日本!)
おまけー2:どう考えてもこっちの方が早く注文したのに、他のテーブルの食事が先に運ばれてきます。これが2回続くと「性悪説」の芽がニョキニョキでそうになります。(あぶない、あぶない)
おまけー3:「性悪説」をはびこらせるものはアンフェアだと思いました。
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