1068号「働きがい」(メールマガジン「人事の目」)

「なんでこんなにクーラーをがんがんにつけてるんだ?」

東南アジアの国々で、オフィスやホテル、ショッピングセンターなどに入ったとたん、寒さに震えた経験がありますよね。マーサー時代に現地の社員にその理由を尋ねたところ、「涼しさ=快適・高級という文化的価値観があるので、おもてなしの意味なんです。」と言われたことを覚えています。

先週、38年ぶりに再会したシンガポール在住の知人から、面白い話を聞きました。彼の勤めるオフィスでは社員たちがクーラーを全開にしているのに、彼らの自宅ではクーラーをほとんど使わないというのです。理由を尋ねると、どちらも“もったいないから”とのことでした。

オフィスでは「会社が光熱費を負担しているのに使わないのはもったいない」
自宅では「自分が払う光熱費がもったいない」

会社の負担を“活かさないのは損”という発想は、日本人にはあまり馴染みがありません。私たち(の多くが)誰に言われずとも節電を心がけ、使っていない部屋の電気やクーラーを消すことを当然と考えます。

この話を聞いていて、「労働」に対する考え方の違いを思い出しました。キリスト教と神道では、労働の意味がまったく異なります。旧約聖書では、アダムとイブが神の命に背いて“善悪の知識の木の実”を食べたことから、神から「額に汗して働き、パンを得よ」と命じられるわけです。つまり、労働は人間の罪の結果として与えられた「罰」なのです。新約聖書では、労働は神に仕える手段でもあるとされ、罪の結果であると同時に奉仕の道――それがキリスト教的な労働観です。

それに対し、神道ではまったく逆です。労働は「罰」ではなく、自然と調和し、神々とともに生きる尊い行為と考えられています。麻生太郎氏が外務大臣時代にこう述べています。

「古事記には、天照大神が機織小屋から出てみれば、神々は高天原で働いていたと書いてある。神々が働くくらいですから、日本の神話によれば労働とは当然のこととして、善をなす行いであるわけです。」

先日、ある会社の拠点長たちとワークショップを行い、自分たちの「働きがい」について考えてもらう機会を設けました。

拠点長ともなると、部下の“働きがい”について考えることはあっても、自分自身のことは後回しにしがちです。自分の働きがいを見失ったままでは、困難な状況に直面したときに無理を重ね、心が折れてしまうことがあります。自分が働きがいを感じているからこそ、部下の働きがいを支えられるのです。自分のことを後回しにしてはいけません。

私にとっての働きがいは、「心に火が灯る瞬間」に立ち会うことです。組織の長として、コンサルタントとして、塾長として、あるいは演者として――目の前の人々の心に火が灯っていく、その瞬間を見届けると、自分の心にも火が灯ります。この一瞬のために働いていると言っても過言ではありません。

自分の「働きがい」について、改めて考えてみてはいかがでしょうか。

おまけー1:東京駅の弁当売り場で、オーバーツーリズムを肌で感じました。

新幹線の発車まで残り5分。改札前の弁当売り場は人であふれかえっており、その中心には北米からの団体客がいました。彼らはスマホに表示された乗車券を見せながら、「これで弁当をくれ」と主張しています。もちろん売り子さんは「NO、NO」と応じていますが、まったく通じません。

どうやら旅行会社が弁当を事前予約するパッケージを組んでいるようなのですが、現場ではその仕組みが共有されていない様子でした。助け舟を出そうかとも思いましたが、下手をすると自分の新幹線に乗り遅れてしまうため、結局、自分の弁当を諦めてその場を立ち去りました・・・

おまけー2:新大阪駅で英語が怪しい外国人3名が“関西のおばちゃん”に道を尋ねていました。
「このままバーッとゴー、コンビニ、エスカレーター、ガー アップや!」(すごい)




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