インディゴブルーの人事手帖 second seson
第1回「不安混じりの栄転」

< 前号(1st season)はこちら >

 

「菊池さん、お久しぶりです」。南林間駅の改札を出たところで声をかけられた。江間宏。10年ぶりだ。 

かつて江間は菊地が採用チームのリーダーをしていた際に直轄の部下だった。地方の国立大学のラグビー部出身。スクラムハーフ担当。小柄ながら機敏な動きでチームに貢献するポジションと聞いた。採用活動においても、まさにその通りの動きをしてくれていた。 

江間は採用チームで活躍した後、労務課主任を経て3年前にフジクラが買収したアール工業に総務課長として派遣されていた。

アール工業は携帯電話カメラの焦点合わせに使う「AFL(オートフォーカス・リニアモーター)」を開発・製造する会社である。技術力の高さを買われ、世界中のスマートフォン製造会社との取引により、急成長した。

数年前、スマートフォン最大手がカメラ部分の大幅な仕様変更を行い、事前情報を掴んでいなかったアール工業はこの変更への対応が遅れ、窮地に追い込まれていた。

アール工業の技術力を高く評価したフジクラが第三者割当増資を引き受け救済。フジクラはアール工業の60%の株式を保有することになった。フジクラの子会社になった後も創業者の大村光治は代表取締役会長として君臨。実質的にアール工業を取り仕切っていた。買収後、フジクラから製造本部の副本部長を長く務めた竹沢を社長として送り込んでいたが、竹沢は大村との関係に疲れ、先月依願退職していた。

「菊池さんが社長だなんてビックリです。でも、これでウチも変わりますね」 

運転しながら江間は嬉しそうだ。そりゃそうだ。親会社からの派遣とは言え一人は辛い。この3年で、江間から以前あった輝きが失われているようにも感じた。自分に本当にこの会社を変えられるか。菊池は身震いした。

 

「菊池くん、この前の人材育成会議での仕切りはたいしたものだった。吉田くんの暴走も止まったし、ある意味で役員が一枚岩になったよ。ありがとう」

 1か月前、菊池は社長の飛田から呼び出された。褒めてもらっているが、本題はこれではないだろう。菊池は、同席している竹沢のことが気になった。竹沢とはこれまで接点がなかったが、製造部門で荒木と本部長を争った人だと聞いていた。荒木の1期上なので年齢的には60歳になっていないはずだが、ずいぶん老けたように見える。

「ああ、竹沢くんだ。人事担当役員だから知ってるよね」

「はい、お名前はもちろん存じあげています。確か、うちが買収したアール工業の社長でいらっしゃいますよね」

「うん。そうなんだ。そうなんだが、今月末をもって退任することになった。健康上の理由でね」

「分かりました。竹沢さん、お疲れ様でした。お身体どうかご自愛ください。で、後任についてですね?」

「うん、そう」

「製造部門常務の荒木さんと相談して人選します」

「いや、実はもう荒木くんと相談して人選した」

「あ、そうですか。早いですね。わかりました。誰ですか?」

「きみだよ」

「え?」

「菊池くんにお願いしたいと思ってるんだが」

 全く予想外の展開だった。人事畑でここまで来た自分が買収した会社の社長? 人事担当役員としてはその選択肢はなかった。

 竹沢が口を開いた。

「アール工業はね、創業会長の大村さんのワンマン会社だ。彼の求心力が一介のベンチャー企業と世界の名だたるスマホ製造会社との商流をつくった。間違いなく彼が成長の原動力だった。ただ、彼のやり方は博打だ。これまではたまたまうまくいったにすぎない。事業計画を求めてもちゃんとしたものは出てこない。その場の思いつきで経営している節もある。

フジクラは上場企業だ。上場企業には上場企業のやり方がある。ただ、大村さんはそれが気に入らない。幹部たちはほぼ全員大村さん派だ。私は社長だがお飾りみたいなものだ。実質的には何の権限もない」

飛田が立ち上がった。

「アール工業の技術力は評価できる。だから買収した。ただ、全く活用できていない。フジクラは投資会社ではないからね、買収した以上、既存の事業とのシナジーやフジクラなりのアール工業の成長戦略を展開しなければ買収そのものの意義を株主から問われかねん」

「はい、おっしゃる通りだと思います」

「うん、で、きみに社長として来月から着任してもらいたい。正式には臨時株主総会を開催して取締役に選任し、その後の取締役会で代取社長就任。それまでの肩書は顧問だ」

「あの……、光栄なことと思いますが、私に務まるでしょうか。私は人事畑の人間です。これまでゼネラルマネジメントの仕事をしたことがありません。技術的なことについても素人です」

飛田は大きく頷いた。

「アール工業の今後の選択肢は二つだ。まずは、フジクラとしっかり手を握って技術や製品開発を一緒にやっていくというシナリオ。この場合は株式保有を100%化する。これが買収当時の期待だった。次のシナリオは提携解消だ。中途半端な状態で子会社として残しておくわけにはいかない。

 いずれのシナリオにしても大村会長次第だ。大村会長との関係性構築。これが決め手になる。変に技術議論をふっかけてしまうと良くない。技術面では素人で、関係性構築は抜群の経営人財はいないか、と荒木くんと話したところ、荒木くんから菊池くんの名前が挙がった。僕も賛成だ。君が適任だと思う」

「菊池さん、着きました」

閑静な住宅街だ。

「え、ここが本社?」

「はい、アール工業の本社、大村会長のご自宅でもあります」

「菊池さん?」

野太い声と共に大村会長が顔を見せた。(次号へ続く。次号配信をお待ち下さいませ。)

関連記事

TOP
TOP